齋藤 冨士郎
「謎」とされているロベルト・フィルポのビクトル録音
ロベルト・フィルポは1943年から1944年にかけてビクトルに10曲録音している。その内訳は
1.LA ROSARINA (R. A. González – N. A. Timarni)
CUARTETO 60-0401 79601 31.03.1944
2. EL REPIQUE (Roberto Firpo)
CUARTETO 60-0401 79602 31.03.1944
3. LUNA -milonga- (Lucio Demare- Homero Manzi)
ORQUESTA Canta:IGNACIO MURILLO 60-0401 79646 21.04.1944
4. AL VOLVER DE MADRUGADA (A. O. Arona – F. Garcia Jiménez)
ORQUESTA Canta:IGNACIO MURILLO 60-0415 79647 21.04.1944
5. LENGUAJE DE AMOR -vals- (Roberto Firpo – V. Panella del Campo)
ORQUESTA Canta:IGNACIO MURILLO 60-0495 79648 21.04.1944
6. EL LLOLON (A. Radrizzani – E. Cadícamo)
CUARTETO 60-0471 79720 02.06.1944
7. RECORDANDO LO PASADO (Roberto Firpo)
CUARTETO 60-471-79721 02.06.1944
8. ARGANÑRAZ (Roberto Firpo – Enrique Cadícamo)
ORQUESTA Canta IGNACIO MURILLO 60-0495 79769 21.04.1944
9. NOCHE CALUROSA -vals- (Roberto Firpo)
CUARTETO 60-0537 79769 11.09.1944
10. EL TOTO (Carlos Posadas)
CUARTETO 60-0537 0537 11.09.1944
である(Lefcovichのディスコグラフィによる)。この内、CUARTETOの6曲はA.V.ALMA CTA-6025に復刻されているが、ORQUESTAの4曲については個人的にSP盤を所蔵されている方は居られるが復刻LP/CDは無いと思う。演奏スタイルに変化はない。フィルポが何故この時期にビクトルに録音したのかの経緯は不明でタンゴマニアの間では「謎」とされている(参考資料 [1])。
フィルポが1919年に録音した“El resplandor -vals- / EL BAQUEANO”のSPレーベルには大きくDISCO ROB. FIRPOとあり、下の方に小さくEXCLUSIVIDAD MAX GLUCKMANNとある。即ちこの時代は未だODEONというレーベル名は存在せず、フィルポ楽団そのものがレーベル名になっていた。周知のようにこの後レーベル名はDISCO NACIONALとなり、最後にODEONになる。大げさに言えばフィルポ楽団がオデオンの基になったわけで、フィルポはオデオンの重鎮と言っても過言ではない。そのフィルポがオデオンではなくライバルのビクトルで録音したというのはたとえ10曲とは言えただ事ではない。よほどの理由があったに違いない。それは何か。「謎」で済ますわけには行かない。
イグナシオ・コルシーニの場合
フィルポではないけれどもやはりオデオンの主要アーティストであるイグナシオ・コルシーニについて書かれた資料(参考資料[2])に次のような記述がある:
――アルゼンチンは当時まだレコード製造のための原材料をヨーロッパからの輸入に頼っていた。ところが第2次世界大戦のために材料の輸入が途絶えたので、レコード製造が困難になった。それが1940年代にコルシーニの録音数が激減しているのはそのためである(図1の数の円で囲った領域)――

しかしダリエンソやトロイロなど英米系のビクトル系のアーティストではそのような傾向は見られないから、これはドイツ系のオデオンに限った話と考えてよいだろう。もしこれが本当であるとすればコルシーニの他にもフランシスコ・カナロやフィルポも同様な影響を被っているはずである。
フランシスコ・カナロの場合

図2は1940年代のフランシスコ・カナロ楽団の録音歴である(参考資料[3])。これを見ると、コルシーニの場合ほど極端ではないが、確かに1938年から1948年まで録音数はほぼ直線的に減少している。特に減少傾向が著しいのはキンテートやインストゥルメンタルの場合で前者の場合は1944年から1946年まで録音ゼロ、後者については1942年から1944年まで録音ゼロである。これがコルシーニの場合と同様に原材料不足の影響とは断定はできないが、あったとしても不思議ではない。
オスバルド・プグリエーセの場合
オスバルド・プグリエーセは1943年7月15日にオデオンに“Farol”を録音した(歌:ロベルト・チャネル)。これが彼の初録音である。この後、彼はオデオンに1943年に6曲、1944年に16曲、1945年には20曲を録音している(参考資料[4])。1940年から1945年まで、オデオン所属のベテランのアーティストが(おそらく原材料不足のために)録音を減らして行く中で彼はその逆を行っている。これはどう解釈すればよいのだろうか。
見えてくるオデオンの経営戦略
少なくともSPレコードの時代では、レコード会社は音楽の制作、レコードの製造、レコードの販売のすべてを行った。その意味でレコード会社はレコードの「製造」業でもあった。
一般に製造業において原材料が入手できなくなったらそこでその企業の経営は行き詰まる。それ故それまでレコード盤を製造する原材料の供給をドイツに依存していたオデオンにとって、戦争のために原材料の供給が途絶えたことは死活問題であり、原材料の在庫を食いつぶしながらどこまで持ち堪えられるかが最重要経営課題となったに違いない。そういう状況下では、レコードの売り上げ/原材料の使用量の比率を如何に最大化することに経営陣は腐心したことであろう。だから有名であってもあまり売り上げ増が見込めないアーティストよりも、プグリエーセのような、新興であるけれども人気上昇中のアーティストに原材料資源を割り当てることは合理的な経営判断であったと言える。コルシーニはジェントルマンであったからそうした状況は理解したと思う。おりしも当時は歌謡タンゴの全盛時代であったからカナロもレコード製作を歌物に集中することに異議は無かったはずである。
そこで問題はフィルポである。フィルポは大げさに言えばオデオンの育ての親であるから、オデオンとしても彼を粗略には扱えない。しかし当時にあってフィルポのクアルテートやオルケスタではそれほどの売り上げは見込めそうもない。そこで、具体的にどういう経緯であったかはわからないが、「一時預かり」乃至は「緊急避難」として一時的にビクトルの救援を仰いだのではなかろうか。勿論、これは推測・想像の域を出てはいないが、それ以外の理由は考え難いのである。
参考資料
{1} 大岩祥浩、「アルゼンチン・タンゴ アーティストとそのレコード」(改訂版)((株)ミュージック・マガジン 1999年)
[2] 1880-UN SIGLO DE HISTORIA-1980 TANGO, No.21
[3] 齋藤 冨士郎、「1940年代のフランシスコ・カナロ楽団」、TANGUEANDO EN JAPON、No.36(2015)pp.15-20
[4] CENTRO CULTRQL OSVALDO PUGLIESE ,“Osvaldo Pugliese”(2005 Julio Keselman)
リンク:齋藤 冨士郎のタンゴ・サイト ウェブタンゴ:ウェブの世界でタンゴに浸る