齋藤 冨士郎
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アントニオ・スカタッソ(1886 -1956)
日本発売のタンゴLPのジャケ裏の解説を読みながら、タンゴを楽しんだことのあるタンゴ・ファンなら作曲者としてのアントニオ・スタカッソの名前は頭のどこかに入っているはずである。しかしほとんどの人はそれで終わってしまって、彼のことについてそれ以上調べて見ようという人はいないと思う。確かに彼はカナロやフィルポ、バルディ、アローラス並みの大作曲家ではない。しかし後述するように、彼には50曲余りの作品があり、それらの内の何曲かは多数の音楽家が録音を残しているので、彼を一概にマイナーな作曲家だと片付ける訳にもゆかないような気もする。それで、何かの足しくらいにはなるかと思って、彼について調べて見た。
アントニオ・スカタッソの出自
アントニオ・スカタッソ(Antonio Scatasso、本名)は1886年2月28日にイタリーのナポリで生まれた。年齢的にはロベルト・フィルポよりは2年若く、フランシスコ・カナロよりは2年年長ということになる。両親についての記録はない。4歳の時に彼は家族に連れられてアルゼンチンに移住した。この辺の事情はイグナシオ・コルシーニやカルロス・ガルデルの場合に似ているが、こうしたことは当時のアルゼンチンでは珍しくはなかったと思われる。幼少の頃についての記録も知られていない。 彼にはEl Tano BarulloとEl Gringoというあだ名があった。Barulloは騒音、騒動という意味であることから、日本語に直せば「お騒がせイタ公」とでもなろうか。Gringoは「外人」でよいだろう。

音楽家としての経歴
スタカッソは始めはマンドリンを習った。そして、1907年頃(21歳ころ)には、バイオリンのフランシスコ・カナロとギターのフェリックス・カマラーノ(Félix Camarano)と組んで、田舎回りの巡業でプロ・デビューを果たした。バンドネオンが普及する前のタンゴの草創期においてはマンドリンが結構使われたらしい。1980年に来日したカルロス・ガルシーア・タンゴ・オールスターズが現存する最古のタンゴとして紹介した”バルトーロ(Bartolo)” も演奏楽器はマンドリン、バイオリン、ギターであった(EMI=Odeon EOS-81294)。フランシスコ・カナロが最初に手にした楽器もバイオリンではなくマンドリンであった(Oscar Zucchi, “El Tango, el bandoneón y sus Interpretes Tomo II”, (Corregidor 2001) pp.556-602)。
更に1913年頃にバンドネオン奏者のアウグスト・ペドロ・ベルト(Augusto Pedro Berto)とギター奏者のドミンゴ・サレルノ(Domingo Salerno)、それに彼自身のマンドリンでトリオを組み、ビジャ・クレスポ(Villa Crespo)のいくつかのカフェに出演した。スカタッソが何時、どのようにしてバンドネオンを習い始めたかはわからない。オスカル・スッキ(Oscar Zucchi)はアウグスト・ベルトに会い、彼の演奏を聴いたことがスタカッソがバンドネオンに興味を持つきっかけになったのではないかという可能性を示唆している。そして早くも1914年にはスカタッソはバンドネオン奏者としてタルカウアノ(Talcahuano)通りの有名なカフェ:エル・パルケ(El Parque)に進出した。また同年、処女作“El 6000”を作曲した。但し、これはタンゴではなくestilo camperoである。曲名の数字が何を意味するのかはわからない。
1922年にはスカタッソはバンドネオン奏者としての地位を確立し、彼自身のバンドネオン、フィデル・デル・ネグロ(Fidel Del Negro)のピアノ、ベルナルド・ヘルミーノ(Bernardo Germino)のバイオリン、ルイス・ベルンステイン(Luis Bernstein)のコントラバスによるクアルテートで前記のエル・パルケに再出演し、更にいくつかの劇場にも出演した。次の年、バイオリン奏者がヘルミーノからティト・ロッカタグリアータ(Tito Roccatagliata)に替わった。
1923年にスカタッソはスマルト劇場(el Teatro Smart)でイグナシオ・コルシーニ(Ignacio Corsini)と出会い、二人の間には協力しながら演奏活動を行うことへの深い友情が生まれた。次の年、二人は、バンドネオンのフリオ・ビバス(Julio Vivas、彼は後にガルデルのギター伴奏者となった)、バイオリン奏者のアルベルト・プグリエセ(Alberto Pugliese、オスバルド・プグリエセの兄?)、それにピアノのフィデル・デル・ネグロらとともに、アポロ劇場(el Teatro Apolo)に出演した。更にスタカッソはエル・カルーソ・ネグロ(El Caruso Negro)とあだ名されたウルグアイの歌手オスカル・ロラ(Oscar Rorra)を伴って、RCAビクトルに録音もした(Todotango.comによれば1925年のことらしい)。その時の曲目はサルバドール・グラナータ(Salvador Granata)の“Un real al 69”、エドゥアルド・ペレイラ(Eduardo Pereyra)の“Triste regreso”、“Recuerdos de arrabal”、アルトゥーロ・セネス・イ・シエラ(Arturo Senez y Sierra)の“Cruel mujer”などであった。また、コルシーニと共にロサリオやコルドバで、更にラジオ・ナシオン(Radio Nación)に向けて活動した。1929年にはブエノス・アイレスとモンテビデオでのティタ・メレロ(Tita Merello)の公演にトリオ編成で同行した。この公演にはエルネスト・ファマー(Ernesto Famá)とアスセナ・マイサニ(Azucena Maizani)も同行した。
1933年にはオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナ・ロス・クアトロ・アセス(la Orquesta Típica Argentina los Cuatro Ases)を編成し、チリ、ペルー、ボリビア、ブラジルを巡演した。かれの最後の出演は1943年でラジオ・アルヘンティーナに向けてのスカタッソ—カチート(Scatasso – Cachito)のタイトルの下でなされた活動あった。カチートとはバンドネオン奏者のエクトル・プレサス(Héctor Presas)のあだ名である。
スカタッソ楽団による録音は前記の1925年のRCAビクトル録音だけのようで、録音数も少ないと思われる。スカタッソ楽団-ロラによる“Triste regreso”はTodotango.comに収録されているが、そこでは作曲はどういうわけかアントニオ・タントゥリ(Antonio Tanturi)となっている。この録音の復刻例はないようだ。筆者の知る限りではスカタッソ楽団の日本での復刻例は“Corazón de piedra”(M. Pereyra)(A.M.P. CD-1106)と“Saber vivir”(R.Collazo)(A.M.P. CD-1254, JOY SOUND VC-101)の2例のみである。
作曲家としてのアントニオ・スカタッソ
アントニオ・スカタッソの本領はタンゴ演奏家としてではなく作曲にあると考えるのが妥当である。
1920年代には歌のタンゴは多くの劇場演劇作品において重要な要素として取り入れられるようになり、そのためのわかり易いタンゴ作品が求められるようになった。平易なメロディを持つスカタッソの作品はそのような需要に向けて最適であった。スカタッソのそういう時代背景の下で彼は劇場での活動に重点を置くようになり、様々な劇場でオルケスタを指揮した。特にアポロ劇場ではフィデル・デル・ネグロ、エステバン・ゴンサーレス(Esteban González)、パスクアル・マセオ(Pascual Mazzeo)、フェルナンド・モントーニ(Fernando Montoni)、ドミンゴ J. ビバスらとともに数年活動した。彼の劇場との関係は、晩年には管理職であったが、彼の死の時まで続いた。
スカタッソは駆け出しの頃は楽譜が読めず、聴き憶えで演奏したが、後にアルシーデス・パラベシーノ(Alcides Palavecino)から和声学や記譜法を学んだ。
参考資料[1]の記載と筆者の乏しいコレクションに基づいて、スカタッソの作曲作品を、作詞者、録音を残した演奏者・歌手、収録LP/CDデータを含めて一覧表にまとめたものを次頁以降に掲載した。54曲という作品数はフランシスコ・カナロなどに比べれば少ないが、それでもこれだけの作品数を残している作曲家はそう多くはない。彼の作品の多くは劇中使用を狙ったものなので、重厚な、スケールの大きな作品というよりは平易でわかり易いものが中心である。それだけに軽く見られているようだが、それでもこれだけの数の作品を残しているのだから、「大」作曲家とは呼べなくても、それに次ぐ存在と言えよう。
この表を見て気付くことは、全作品の約60%の曲の録音が残され、しかもそれらの殆が日本で復刻されているということである。ということは彼の作品の人気が高かったということ、いわば「流行作家」であったことになる。しかもそれらの内で“El poncho de amor”、“Ventanita de arrabal”、“Ya no cantás chingolo”はタンゴ名曲事典にも取り上げられているということは、それなりの「名曲」であることになる。名曲事典には入っていないが“La cabeza de italiano”、“La mina del Ford”,”Pobre gringo”なども何人かのアルゼンチンの演奏家・歌手は取り上げているので、やはりそれなりの「名曲」とみなしてよいであろう。
彼は1956年7月29日にブエノス・アイレスで亡くなった。
参考資料
[1] https:://es.wikipedia.org/wiki/Antonio_Scatasso
[2] https://www.todotango.com/creadores/biografia/945/Antonio_Scatasso
[3] Horacio Ferrer, “El Libro del Tango” Tomo Ⅲ
[4] タンゴ名曲事典((有)中南米音楽、1998年)






