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「Chiquilín de Bachín」(バチンの少年)
Letra : Horacio Ferrer (1933-2014)
Música : Áator Piazzolla (1924-92)

Horacio Ferrer とÁstor Piazzolla のコンビ*による傑作。
第2連はカトリックの説話を踏まえている。そして第3連がこの曲の主題になっている。
現在は裕福に、裕福でなくても普通に暮している人でも、もし過去に運命が一つ狂っていたら、この少年のような境遇になっていたかも知れないと言う気持ちを心に持っている。そして、施しを求められた時にそれをしなかった、出来なかったことへの恥は深い。
 この曲と同じく不幸な境遇の子供を登場させるタンゴは数多い。「El huérfano」「La limosna」「El bazaar de los juguetes」や「Huerfanita」など。 さらにこの歌詞から連想されるのは「Yira, yira」や「Sueño de barrilete」などがある。

*コンビのことをしばしばbinomio (数学用語で2項式)と言う。dúo よりちょっと重々しい?
作詞家と作曲家のbinomio の例を挙げれば
Alfredo Le Paera とCarlos Gardel
Enrique Cadícamo と Juan Carlos Cobián
Francisco García Jiménez とAnselmo Aieta
Homero Manzi とSebastián Piana など

 (以下は関西外国語大学大澤ゼミでこの曲を取り上げたものをそのまま再録するもの)
「Chiquilín de Bachín」の第2連以下をどのように日本語に置き換えるか? 原詩の脚韻(=rima) までを使って翻訳するのは不可能だが、原詩に施されている脚韻に対抗する試みのひとつとして七五調への置き換えを試みよう。

 原詩の第1連の脚韻を見てみよう。 
bluyín と Bachín   brilla と parrilla
 これに対抗して七五調で訳してみると
夜毎バチンの居酒屋で テーブル廻って薔薇を売る
ジーンズ履いた小天使 汚れた顔の小天使
月が焼肉照らしても お前にあるのは焦げたパン

 第2連には幾つものキリスト教(カトリック)の信仰説話が下敷きになっている。
un seis de enero は何を指しているのか? キリストの生誕は12月25日とされる。それを祝うために東方の三賢人(Tres Reyes Magos三博士とも言う)が三種類の土産(oro=黄金 incienso=香 mirra=ミルラ、没薬)を持ってBelén (=ベツレヘム、キリスト生誕の地)に到着したのが翌年の1月6日(seis de enero) のこと。そしてtres reyes gatos は tres Reyes Magos をもじったもの。キリスト教世界で1月6日は el día de los Reyes Magos という祝日であり、子供たちに玩具などの贈り物をする習慣になっている。さらに estrella del revés が下敷きにしているものは、幼児キリストの幸せを願うベレンの星(=la Estrella de Belén) であり、 del revés で主人公のバチンの少年が幸せとは逆の境遇にあることを示しているもの。
 また roban sus zapatos, uno izquierdo y otro ¡también! の解釈には1)素直に“左の靴も もう片方の右の靴も”の他に2)“左足の靴を盗まれたが、貧しい少年が右足に履いていたのも左足用のものだった”という穿った解釈をするネイティヴもいる。
脚韻はどうなっているか?
すぐに気が付くのは gatos とzapatos だが、amanecer, revés, también で E の音を響き合わせている。
朝が来るのを嫌うから いつも目覚めは悲しくて
1月6日のお祭りも 無情の星に起こされる
履いてる靴まで盗まれる 右のも左のも盗まれる

 この詩の主題になっている第3連を見よう。
un ramo de voz は un poco de tu voz と考えていい。ramo (=花束、小枝) は少年が売っている薔薇の一枝。この第2連には“現在の自分はこの少年ほどには惨めではないけれど、この少年に似た過去を持っているか、或いはひとつ運命が狂えば自分もそうした境遇に落ちていたかも知れない”ごく普通の人々の思いが籠められているのだろう。そして日常的な感覚として語られているのは“物乞いに施しをしなかったことへの後悔・恥”の意識である。この部分は最後の段落・連で繰り返されていることからもこの詩の主題である。
なおbaleame con tres rosas のbalear という動詞の解釈は1)普通のスペイン語の“銃で撃つ”“だまし取る” 2)ルンファルドの“飾る”。ここでは1)を採用して“撃ってくれ”“殴ってくれ”とする。脚韻は entendí とchiquilín のÍ の音。
“チキリン!”
俺にお前の声を呉れ そしたら俺は街に出て
花に隠して恥を売る 
俺を殴ってくれないか お前の持ってる3本の
薔薇で殴ってくれないか 
俺が知らないお前の飢えを
嘆くお前のその薔薇で
“チキリン!”

 第4連。朝が来ると普通の家の子供たちは学校に行く。行けない少年の母に対する思いが語られる。母は売春婦なのだろう。Yira que te yira の下敷きになっているのは子供の遊びの鬼ごっこの掛け声 Corre que te pillo だろう。掛け声なので日本語にするのは難しいが、原詩の雰囲気は感じられる。少年は街角に立つ母親を見る。しかしそういう仕事をしている母親を見たくないという気持ち。脚韻は aprender, saber, ver と mira, yira
朝になったら子供はみんな
前掛け掛けて学校に
だけどこの子に残るのは
学べなかった数ばかり
街角に立つ母を見る
街角に立つ母を見る
だけど見ないで目をそらす

第5連。居酒屋のゴミ箱に毎朝捨てられているパンやスパゲッティ。これを拾って食べながら少年は旅立ちの夢を凧に託している。ir と irse の違いを思い出して置くこと。ir は何処かに向かって行くことだし、irse は今いる場所から立ち去ること。
夜明けになるとゴミ箱に 残飯拾って夢を織る
旅に出る夢 凧の夢 夢は叶わずここに居る

短い第6連。niño de mil añosの解釈は“この少年のような境遇の子は、ずっと昔からいつもこの世にはいるものだ”というネイティヴの解釈に従う。
それは不思議な男の子 昔から居る男の子
凧糸もつれる胸の中

1
夜毎バチンの居酒屋で
テーブル廻って薔薇を売る
ジーンズ履いた小天使
月が焼肉照らしても
お前にあるのは焦げたパン
2
朝が来るのを嫌うから
いつも目覚めは悲しくて
1月6日のお祭りも
無情の星に起こされる
履いてる靴まで盗まれる
右のも左のも盗まれる

3
“チキリン!”
俺にお前の声を呉れ
そしたら俺は街に出て
花に隠して恥を売る
俺を殴ってくれないか
お前の持ってる3本の
薔薇で殴ってくれないか
俺が知らないお前の飢えを
嘆くお前のその薔薇で
“チキリン!”
4
朝になったら子供はみんな
前掛け掛けて学校に
だけどこの子に残るのは
学べなかった数ばかり
街角に立つ母を見る
街角に立つ母を見る
だけど見ないで目をそらす
5
夜明けになるとゴミ箱に
残飯拾って夢を織る
旅に出る夢 凧の夢
夢は叶わずここに居る
6
それは不思議な男の子
昔から居る男の子
凧糸もつれる胸の中
(この後第3連が繰り返して歌われることが多い)
邦訳:大澤 寛